昔話をしよう~いつしか医者の道へ~
十全同窓会会報 第156号 2014.01.18
昭和二十二年六月、神奈川県横須賀市にて出生。
六十六歳であるが若く見られることが多々ある。
患者もその親もその若さがみなぎっている。
若さは伝染するらしくその恩恵を蒙っていると勝手に信じている。
父は、横浜にある米軍印刷局に勤めていたが、印刷局の開放日に父に連れられて仕事場を訪問した。
機械室に入った時、その騒音の凄さに耳を覆った。
父の声が大きいのは職業病だったのだ。
昔は怒られているのではないかと錯覚したことがあった。
その印刷局で、面白い光景を目撃した。
昼休み、食事に外のテントに出たら、職員がビンに入った醤油を飲んでいたのである。
それがコーラだった。

父は武藤家の三男であるが親と同居した。
しっかり者の祖母には、長男の嫁も、次男の嫁もそりが合わず、数年もたたないうちに別居となった。
母は、その単純さゆえに祖母には一番可愛がられたようだ。
それでも嫁姑戦争は勃発した。
些細なことから戦争は始まる。
贅沢な物をい買ってきたという姑の言葉に、母はシトシトと涙を流し、場所をわきまえずに言い争いが始まる。
私はその場から去ることも出来ず、買ってきた柿をかじりながら、静かに涙を流す。
人生は複雑である。
私を愛してくれる二人の争いに、子どもの心は分裂し時限爆弾のように常に不安が伴う。
戦争の終焉は、母と私が実家へ帰ることである。
一週間ほどすると父が迎えにくる。
深夜のヒソヒソ話に、聞き耳を立てながら眠りにつく。
翌朝、母と私は我が家への道をたどる。
そんなことが何回繰り返されたことだろう。
私は笑顔の少ない無口な悩み多き少年になっていた。

何時からかは定かではないが、右睾丸の横にさらに一つ、柔らかい腫瘤が育っているのに気づいた。
何かの病気だろうと考えたが、どうしていいか分からず、不安は成長した。
結局、場所が場所なだけに誰にも相談することなく不安は更に巨大化した。
家庭の問題のみならず身体への不安が影響したのか、エリートコースを歩いてきた中学生も、高校ではそうは行かず成績は下降の一途をたどった。
あるテストで数学零点をとったが、それでも自分の実力は理解せず、志望していた四つの大学工学部を滑った。
予備校の試験にも落ち、浪人が決まった時、母に病状を打ち明けた。
かつての紅顔の美少年も、人生の試練にも耐えかね、三個の睾丸を持つ暗い少年に成り下がった。
母は、即座に外科医院の名前を告げた。
昔から当家の外科の主治医である短髪の医師は、テキパキと仕事をこなす。
看護師を遠ざけて私の下半身を見つめ、「いつから?」と聞きながら触診する。
看護師に注射器を取りにいかせた。
「どうなるんだ。」と思う間の早業である。
医師は注射器に吸い取った、やや白濁した液体を見ながら「陰嚢水腫」と告げた。
そして、「取ってしまえばおしまいだ。」とも。
数日後、局所麻酔のみで手術は短時間で終了した。
手術台の上にある柵を持っていた私の両手に婦長のお腹が押し付けられ、その温もりが、手術中の不安を癒してくれた。
呆気なくも短時間の手術で心の一部を占めていた不安感が拭われた。
傷が癒えるまでの一週間の入院は、心身の疲れを癒す貴重な時間であった。
人間の悩みが、医療という技術によって消えてしまう現実を身をもって体験した。
人生の転機であった。
医師という仕事も将来の夢として浮上した。

試験のない予備校の程度が低いわけではない。
定員に満たないから試験をしないだけである。
優秀な人材は、試験がなくても集まる。
その逆もある。
横浜にあるY予備校は、数学零点であろうがなかろうが受け入れてくれた。
初めてのバッジのない生活に戸惑いながら、日々が過ぎる。
現役時代、模試試験が近くなると必ず下痢をしたが、それも思い出になった。
少し心と体がたくましくなったのか?
常に成績が張り出される○○一彦△△一彦がいた。
武藤一彦よ!お前はいつデビューするのか。
○○一彦とは、テストで隣りに座ったことから知り合いになった。
昼休みの一時間は、彼との貴重な交流の時間になった。
工学部志望の彼の人間性は、無口な私を雄弁にし、人生とは人との出会いで楽しくなる事を教えてもらった。

おもむろに風呂敷を開き、黒板に数式を丁寧に書きながら決して慌てることなく、人生を語るが如くに数学を語る老教師と出会った。
数学を理路整然と誰にでも理解できるように砕いて見せる。
毎日の講義に惹きつけられ、数学の点数が上がる。
数学とはこんなにも楽しい学問だったのだ。
ある時、3人の一彦が壁紙を飾った。
1回だけだったが込み上げるものがあった。
暗い毎日に光がさし、「陽はまた昇る」という言葉に納得した。
高校時代の初恋に敗れ、北陸の鉛色の空が私の気持ちを誘った。
試験前日、夜行列車に揺られながら寝不足のまま早朝の金沢駅に降り立った。
町を当てもなく歩きながらいつしか兼六園のベンチに腰掛けていた。
次第に身体は横になり、眠っていた。
人生の転機とは、何だろう。
人や物との出会いが、いや私の場合は三つ目の睾丸も医学部受験という転機のキッカケになったのだ。
しかし本当に転機なのか。
転機と考えるのは、間違っているのかもしれない。
転機ではなくそれが私の人生の流れなのかもしれない。
出会った家族を初め、多くの人たちとの交流の中で人生が作られて行くのだろう。
その流れが私の人生であり、貴方の人生なのだ。
予備校を落ちた事も、老教師に出会ったことも、○○一彦に出会ったこともすべてが私の人生を起状あるものにしてくれた。
悩みの中にいる時は、逃げ出したいと思うが、逃げたらどうだったのか。
そちらが本当の私の人生だったのか。
更に伴侶との出会いも人生の大きな出来事だ。
それが幸いであれば、それに起したことはない。
破局を迎えることもあるが、それも人生の流れの結果であれば仕方無い。

午睡から覚め、翌日から三日間の入学試験が待っていた。
流れがどの方向を向いているのか。
その時点でも、全く予想が付かなかった。
私に医者への道を開いてくれた大いなる力は、老教師や睾丸事件、更には建築士という目標にまっしぐらに突き進んでいた○○一彦との出会いであったことは確かである。
多くの出会いに改めて感謝いたします。
院長のひとりごと