東日本大震災と子どもたち~無言で耐えた子どもたち~
大災害時の医療支援を考えるフォーラム 2014年3月16日
1. 東日本大震災との関わり

2011.4.9〜10. 気仙沼への出奔

  • ある陸前高田市出身の俳優が、テレビで映像と現実の景色は全然違うと発言。
  • 震災後、1ヶ月が経つのに子ども達の情報がまったく報道されません。
  • 4月9日(土)午後の外来終了後、家族には内緒で自家用車でナビを頼りに宮城県気仙沼市へ向かいました。
    昔、(小学校1年頃)祖母に連れて行かれた遠い親戚が気仙沼市にありました。
  • 10日(日)午後5時頃に気仙沼市へ到着。海岸近くの家々は、1〜2階がえぐり取られていました。避難所へは寄れず、子ども達には会えませんでした。
2. 福島県相馬市へJMATとして参加 ~石川県医師会派遣JMAT 第17陣~

参加メンバー

武藤一彦(医師) 新保邦子(看護師) 広崎永姫(事務) 森村 仁(事務・運転手)
相馬市の惨状
「はまなす館」の診察室にて
  • 血圧を測りながらお話を聴く。「大変だったねー」・・・
    「私、無一文や」というおばあちゃん。「タンス預金が全部流された」
  • 時にはまったく話さないおじいちゃん。突然の家族との別離や住居の流出に耐えられる人間は少ないでしょう。
  • 若者も受診する。24才のポストマン。避難所に来てから「不眠」の状態が続いているそうです。
  • 毎日、血圧を測りに来るおばちゃんは、家族の行方が分からないと。
「はまなす館」で動けない方への往診
    • 時には、外傷による傷の手当て
      おばあちゃんの下腿に出来た治りにくい潰瘍の処置では、地元整形外科の先生のお世話に。生食による洗浄+nitreaによる湿潤療法の指示がありました。
    • 脳出血後遺症で左半身麻痺のおじいちゃん
      左手指の拘縮をきたし、次第に強度になっていました。爪白癬もあり、掌を傷つける事も考えて、肥厚し伸長した爪を切ることになりました。ヘルパーさんの助けも借りて、お湯で柔らかにした爪をどうにか短くする事が出来ました。
「はまなす館」や他の施設での各県、各業種の連携
  • 山梨県から来られていた薬剤師の方に薬剤関係の申し送りを受けました。
    心身症的な訴えを持っておられる被災者の方への対応について精神科の先生やカウンセラーのアドバイスを受けることもありました。

  • 石川、静岡の2県が受け持つ8施設の被災者が減少して来たので静岡県医師会JMATは、5月19日をもって撤退することになりました。

子ども達はどうしたの?

「はまなす館」のロビーにて
子ども達は、本を読んだり、絵を描いたり、ボール遊びなど、時にはロビーを走り回っていましたが、おしゃべりも少なく静かでした。何よりも笑顔がありませんでした。

バウム・テスト

小学1年生の女の子二人に、「木」の絵を描いてもらいました
根や葉や枝がない

  • 平成23年8月1日発行
    企画・取材・構成 森 健(もり けん)
    800円

    子ども達の言葉で地震と津波の恐ろしさが書かれています。
    そして、自分の子どもにもその恐ろしさを伝えたいと。
はまなす村の影の村長さん
  • 当院の職員が、オレンジのチョッキを着ないで、子ども達と遊んでいました。すると、このおっちゃんが「あんた、誰なの?」という声をかけて来ました。
    職員が「石川県から来た、JMATのメンバーです」と答えたら安心して離れていかれました。
    それ以来、メンバーとも仲良くなり最後の夜には宿泊していた「栄荘」まで酒のつまみを持ってお別れの挨拶に来られました。その時、「家内と息子を流された」と。
    オレンジのチョッキが、JMATの安心の色だったのです。

JMATに参加して

  • 相馬市の避難所「はまなす館」に拠点を置いて、他の避難所も含めて避難されている方々の診断・治療にあたりました。
  • 避難所、特に「はまなす館」は、仕切りもなく人があふれた状態であり(初期の収容 500名)、小さな子どものいる家族は、その泣き声にいずらくなり短期間で出ざるを得なかったそうです。
  • 診察を希望する被災者の多くは、「不眠」と急性の「高血圧」など、精神的な疲労に起因するものが多かったです。
  • 数少ない子ども達は、ロビーを駆け回っていましたが、その眼は笑っていませんでした。被災地のこども80人の作文集「つなみ」を読むと、子ども達がいかに良く地震や津波の状況を見ていたかが分かります。

大災害時の救護・医療支援を考える

  • 国内のあらゆる地域で大災害が起こる可能性があるので、事前に設備が整いスペースやプライベートが守られる避難場所を作っておく必要があるのではないか。現在のような狭いスペースに多数の被災者を押し込むやり方は、新たな病気を作り出している事は否定出来ません。災害と避難場所の2重のストレスを強いている状況は避難とは言えません。
    本来は、癒す場所が必要なのです。
    また、避難場所を作る場合に、その人の状況に対応した施設に避難できるよう配慮し、母子専用、高齢者専用、女性専用、障害者専用など状況に応じた設備を持った避難所の事前建設こそ今後の大災害への基礎となる対応と思われます。
  • 日本医師会JMATのあり方として、いつでも救急処置や精神面の対応(カウンセリング)が出来るような研鑽を積んでおく必要があると感じました。
  • 日本医師会JMATとして、短期間の細切れ対応ではなく、少なくても2週間ほどの現地滞在形態が必要ではないか。被災者にとって、慣れた頃にいなくなる医療者は、ありがたみが半減するのではないだろうか。

3才の子どもと津波の映像

大震災から数ヶ月が経った頃でしょうか。
3才の女の子を連れて受診されたお母さんが、心配そうにこんな話をされました。
「最近、うちの子が、おもちゃのランドセルにいっぱいものを詰めて、肌身離さず背負って歩いている。」と言われました。
女の子は、テレビが大好きで大震災後、大人と一緒に津波の映像を毎日のように見ていたそうです。津波はいつおそってくるか分からないという言葉から、大事なものはいつも身に付けておかないといけないと考えたようです。
 これも一つの PTSD でしょう。「津波の恐怖」が彼女の心を占めてしまったのです。

夢だったらいいなー

ご静聴有り難うございました
院長のひとりごと