進行する少子化への実践的対応を
2020年1月9日

 最近の新聞記事で少子化についての記事が目立った。国からの統計の結果が発表されたからだろう。それにしても毎年定期的に出されるデータの惨憺たる結果は、国として取り組んでいると言いながらその成果が出ないという嘆きばかりである。昨年度の出産数が90万人を切ったという。国民も慣れっこになっていて意見を出す気にもなれない。少子化の解決策が、保育園や子ども園、幼稚園の定員増だけに躍起になっている様に見える少子化対策は、結婚した夫婦が、子どもを産みたいという気持ちに火をつけるものではないという証明であろう。

 それにつけても、OECD諸国の中で子どもに使う予算が低迷していることは、子どもの生育、未来を担う子ども達の重要性を、国が理解していない結果であるように思われる。子ども達は日本の未来を担っているのである。それは理解していても、予算は消費税任せである。まずここが可笑しい。子ども省を作って予算として確固たるものにすることが先決である。その財源を国の防衛費で代替えすることも可能である。原爆の唯一の被災国である日本、そして世界の平和を願っているこの国が、どうして沢山のジェット戦闘機を買う必要があるのか。世界から戦争を無くす役目を担っている日本が、危険な存在である、原爆を作り得る技術を持つ原発を海外に売り込む必要があるのか。

 日本の未来に危険を感じる女性は、自分の子どもが将来どうなるのかという予測に敏感である。子どもがかつてのように戦争のタマになることは嫌である。日本の未来に危険を感じれば、この世に自分の分身を残したくないという心理は当然である。日本の子育て事情に目を向ければ、社会の弱い存在である母子に犠牲を強いているのが現状である。生後2ヶ月から育児を人に任せ、1歳前には多くの母は子どもを預け、共稼ぎで働かなければ人並みの生活が維持できない。パートでボーナスもなく、懸命に午後6時まで働いて、その後子どもを迎えに行き、食事を作り、洗濯をして眠りに就く。その頃、残業で疲れた父親が帰宅する。少し酒の匂いでもすれば、喧嘩にもなる。親と話す時間もなく、そばでその様子を聴いていた子ども達は、生きることの楽しさよりも苦しさだけが記憶に残る。母親の子育てにもっと関わりたいと言う気持ちを、社会が横取りしているとも言える。女性の低賃金を当てにもしている。それが日本の現状である。

 この疲弊した日本、息苦しさの中で人々が生きている日本が、再起する唯一の政策は、余裕ある子育てを実践することである。将来に希望ある夢を育てられる日本を作ることである。母親がゆっくりと哺乳しながら、自分の子どもを見つめる時間を過ごし、その数年間は勤務していた会社の椅子を確保し、子育ての楽しさや大変さを経験することである。父親も周りに気兼ねすることなく育児休暇が取れ、母親をサポートすることが自然なそんな世の中を目指すことである。

 子どもが病気の時も、気兼ねなく母親が子どもの看護ができる環境を作ること、子どもにとっては病気の時こそ、母親の笑顔が、心と体を癒す最高の贈り物である。子育ての難しさは、核家族にとっては当然である。子どもと母親だけの育児、その環境から幼児虐待が生まれて来ても当然である。全家庭に対する母親の友人的な存在として「育児何でも聴いてくれるおばさん」の存在も、一つの方法である。学校では性教育はするが、子育ての勉強は皆無である。今こそ、男女の差なく育児知識を学校で教える必要性を感じる時代はない。育児の楽しさや難しさを、学校教育で取り入れることが、今後の幼児虐待を下降させる切り札の一つではないだろうか。

「不登校」や「ひきこもり」の多い今の日本に、必要なことは何だろうか。それは、受験戦争から子ども達を解放することである。また、ゲームに埋没する子どもがエネルギーを発散できる遊び場の確保も重要である。人は遊びの中で、コミュニケーションを学ぶ。人間として生まれた子ども達が、それぞれの時代を謳歌し、個性を社会で評価され、その人なりの仕事に就き、切磋琢磨しながらも、楽しい人生、良い人生だったと言える社会を作ることである。そうした社会になって初めて、親も安心して子どもの未来を任せられると考えてくれるだろう。
院長のひとりごと