宮城県 気仙沼市へ行ってきました
2011年04月12日
被災地へ、「よし、行こう」という気持ちにさせてくれたのは、テレビで、ある陸前高田市出身の男性俳優が、被害を受けた自分の古里を見に行った時、「写真や報道で見るのとは全く違っていた」と話していたことでした。気仙沼へ行ったのは小学校1年生の時、祖母にそこにいる親戚宅へ連れて行ってもらった思い出があるからです。港に構えた網元の大きなお宅で歓迎して貰えたのが嬉しかったです。

 2011年4月9日(土)診療終了後午後5時過ぎに車で家を出ました。北陸道から磐越道、そして東北道と行程700キロ余りで、さすがに遠かったですが、本当に行って良かったと思います。港に面する町並みは、建物が残ってはいるものの1階〜2階部分が津波でえぐり取られ、残骸に埋まっていました。道は瓦礫がどけてあって通れましたが、車を降り、町をふらついているうちに、自然と込み上げるものがありました。津波の破壊力の大きさは予想以上の物でした。自然の驚異に何も出来ない人間の悲しさに涙が流れたのかもしれません。竜巻ならその通り道だけの破壊で済みますが、津波は町を根こそぎ破壊して去っていったという感じなのです。大きな船も陸に打ち上げられたままです。瓦礫は、整理はしてあるのですが、1ヶ月後の現在でも、置き去りにされたままの印象でした。実際、「どこから片付ければいいんだ!」という状況です。毎日この瓦礫の山を見ていたら住民は、やる気をなくすのではないかと心配します。国の大きな力と予算が必要と感じました。市役所は少し高い所にあり無事でした。職員は休日でも震災処理に追われていました。子どもの絵本を30冊ほど持って行ったので、避難所へ寄る予定だったのですが、何しろ到着が日曜日の夕方になってしまい、町を歩いているうちに日が暮れました。月曜日の仕事も考えて、市役所でどうにかして貰えないかと勝手に考えました。教育委員会の副主任の方がおられ、避難所に分配していただけるというお話でした。水も持っていったのですが、すでに足りていると言うことで持ち帰りました。

 帰りの700キロは、来た道なのでやや楽でした。突き上げの多い高速道を、眠くなったら途中で寝て、また運転という繰り返しでしたが、月曜日の朝、7時半頃に無事戻れました。

 出発前は、命がけかもしれないという恐怖感が有ったのですが、そこに住んで余震を体験している人たちは更に過酷な状況にあると考えられ、「もっと援助の手があってもよいのでは!」と感じました。先ずは瓦礫の撤去と仮設住宅です。更に、子ども達に関してはPTSD(心的外傷後ストレス障害)が心配です。

 開業医として、何も出来ないのが申し訳なかったのですが、現場の状況を見て、出来ることを気長に続けることが大事ではないかと思いました。

 支援のお金も国の予算として必要ですが、皆さんの出来る範囲での援助をお願いいたします。
院長のひとりごと