子育ては、四分六の思い出作り

 新しい学年の始まる4月です。保育所や幼稚園から小学校1年生。小学校6年生から中学1年生。中3から高1へ。子ども心にも何となく、輝かしいような不安なような時期です。私の昔を思い出すと、特に小学校から中学への階段は不安が大きかったような気がします。いろいろな地区からいろいろな子ども達が集まってくる中学時代。子ども達は大きな不安を持ちながら荒波に乗り出していくという感じでしょうか。親も子どもの成長に目を見張ったり、違う環境に溶け込めるか心配になったり、親も子も不安一杯です。でも一歩一歩進まざるをえません。
 子どもが大きくなり自立するにつれて、親は見守るだけしかできません。子どもを信じることだけが親に出来ることです。心の中で「大丈夫だよ。」「ゆっくりでいいよ。」とつぶやきながら見守ることが子育ての最終稿なんだと思います。さて今月のマンスリーニュースは「子育ては四分六の思い出作り」という変な題名でお話ししたいと思います。

 「子育ては思い出作り」・・・私の考えですが、皆さんはどう思われますか。自分の育ってきた時代と、今の子育てと随分違いがあることは確かです。昭和22年のベビーブームに生まれた私は、かの有名な団塊の世代です。今年は還暦を迎えます。戦争が終わって2年目の両親は結婚するとすぐ私が出来ました。結婚したら当たり前のようにポコッと子どもが生まれる時代でした。今は、結婚してももう少し夫婦が楽しんでからと数年後に生む計画を立てるのが当たり前の時代です。子育ても変わってきました。母は専業主婦でしたから学校から帰ると「お帰りなさい」と優しく声をかけてくれました。出不精と内職の為に外出していて不在という事は、滅多に無かった気がします。私が4-5才になったとき、父の両親と同居することになりました。以前から父の実家の近くに住んでいたので、母は祖母から着物の仕立ての手ほどきを受け、内職として親戚や知り合いの着物の仕事をしていました。同居してからも仕立てに関して厳しく教えられたようです。それで家にいることが多かったのでしょう。「お帰りなさい」、時にはそれに続いて「おやつあるわよ」という言葉が聞けることもありました。ふかし芋や手作りのドーナツが常番でした。裕福ではありませんでしたが、父も真面目に働いてくれていましたから、子ども心にもあまり不安のない生活だったと思います。そんな平穏な家庭にも嫁姑の軋轢が、時に激しく燃え上がりました。小学校1年の時、母は私を連れて実家に戻りました。私の記憶にはっきりと残る母の大爆発でした。実家から学校に通いました。家から通う距離の2倍はあったでしょう。何日かすると、父が迎えに来ました。寝床で眠ったふりをしながら、小声で話す両親の言葉の一句一句を聴き逃すまいと耳を立てていました。子ども心にもこれからどうなるか心配だったようです。数日して母は私を連れて家に戻りました。また平穏な日々が続きました。私は、父母が喧嘩したのを見たことがありません。時に嫁姑台風がやってくる危険性はありましたが、家族全員、特に祖母が季節毎の行事を楽しむことが好きでした。誰かの誕生日は、外食したり手作りのお料理で祝いました。お花見にもゴザを持って毎年出かけました。お弁当を持って海水浴や潮干狩りにも行きました。クリスマスには、サンタに頼んでおいたものが必ず枕元に置いてありました。暮れには親戚が集まってお正月のために餅をつきました。蒸かしてアツアツの餅米を少しいただいて、醤油をかけて食べると最高に美味しいんです。町のお祭りには、はっぴを着せてくれてお小遣いも当たりました。学校の運動会には家族みんなで応援に来てくれました。お昼は教室に入って、家から作って来たお弁当を食べました。知り合いの家族、初めて出会う家族の交流が自然に行われました。それが当たり前の時代でした。
 当たり前ですが子どもも遊びが好きでした。ガキ大将に連れられて、ちょっと離れた広場によくソフトボールをやりに行きました。近くに家がありました。ある時、ホームランがその家のガラスを割りました。ガキ大将の命令が出ました。「逃げろー」 皆一目散に来た道を逃げました。ここまで来れば大丈夫と一休みしていたら、そこの親父が追いつきました。予想外のしつこさでした。神妙な顔をして、全員で叱られました。夏の朝は、蝉取りが行事でした。クモの巣を、長い棒の先に付けた針金の輪に何重にもこびり付けて蝉取り器を作ります。抜き足差し足で蝉に悟られないよう家のまわりにある木々を一本一本見て回ります。「蝉発見」そのねばねばの輪を蝉にくっつけて捕まえます。たやすいものです。カゴに一杯になった蝉を逃がしもせず眺めていました。祖母から「蝉は数年間土の中にいて、数日しか生きられないんだよ」という言葉にいつの間にか蝉取りは止めにしました。夏の昼は、ガキ大将と一緒に子ども達だけで海にも行きました。町の港から20分程で行ける島が目当ての場所です。島の桟橋に着いたら、山越えをして島の裏に出ます。岩場が広がっています。飛び込んだり、カニや魚をモリで突いて狩猟を楽しんだりします。お昼は貝や獲物を煮たり焼いたりして、それをおかずにおにぎりをほおばります。午後は海岸線を渡りながら島の探検です。最終の船の案内は鐘の音です。音を聞くと後かたづけも早々に、一目散に船着き場に向かいます。何しろ乗り遅れたら、昔戦争に使われていた不気味な防空壕の残るこの島で一泊しなくてはならないんですから背筋も凍ります。帰りの船の上で見る夕日は、すでに地平線に隠れようとしています。長い夏の日を精一杯楽しんだ思いが、よみがえってきます。「ただいま」「お帰り、○○島はどうだった」「楽しかったよ」「良かったネー」母の心からの「楽しんで良かった」という気持ちが伝わってきて「遊びすぎたかな」という後ろめたさをぬぐってくれました。そして「明日は勉強しなくちゃ」という気持ちが素直に湧いてきました。
 ビー玉、メンコ、ベーゴマ、たこ揚げ、コマ回し、海つり、川つり、山登り、山歩き、卓球、洋弓、吹き矢、輪ゴム鉄砲、花火(2B弾)、チャンバラ、木刀作り、厚紙鉄砲作り、木製模型作り、プラモデル、切手集め、アイススケート、ローラースケート、スキー、テニス、貸し自転車、かるめ焼き作り、缶蹴り、鬼ごっこ、かくれんぼ、陣取り、カード集め・・・まだあるかも知れませんが思い出すままに書いてみました。個人で楽しむもの、集団で楽しむもの、それなりに心に残る遊びの思い出です。思い出はいろいろなエピソードを伴って記憶されています。
 物が無い時代にたくさんの思い出をもらいながら、育ててもらいました。人生は生きることを楽しむという基本も、祖母や父母から教えてもらいました。同時に人間関係の難しさも教えてもらいました。私の人生は、6割りは楽しみ、4割りは苦しみで占められています。子ども達に苦しみが5割りを超えないような生き方を教えてあげてください。5割りを超えると生きることがしんどくなるでしょうから。
   
「子育ては、四分六の思い出作り」

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