新年を迎えて   

いじめについて

1995年が、雪とともに穏やかにやってきました。世界では、戦争や飢餓に見舞われている人々の報道が毎日のように新聞誌上をにぎわしています。日本でも、色々事件はありますが、まー、平和な正月と言えるのでしょう。最近、いじめによる自殺が問題になり、何人かの子供達が誘われるように自殺しました。小児科医としても、子供を持つ親としても大変残念に思います。いじめも昔とずいぶん変わって来たのでしょうが、今回はいじめについて考えてみたいと思います。
いじめっ子といじめられっ子
 いじめる子もいじめられる子も、どちらも問題があるとよく言われます。しかし、いじめられる子が自殺までしてしまうと、そう簡単には済まされません。ところで、いじめる子の気持ちとはどんな物なのでしょうか。いい気持ちなのか、いやいやなのか。いや、もっと複雑な心境なのかもしれません。私の小学校時代の経験からすれば、いじめる子は、「自分は強い人間なんだ。」ということを示したかったのではないかと思います。確かにクラスではガキ大将でしたが、家では親の言うことをよく聞く子供だったと記憶しています。親への反抗心が知らず知らずのうちに自分より弱い立場の同級生に向けられたのでしょう。
 イリングワースという小児科の教授が「正常児」という子供の発達に関した有名な本に弱い者いじめとして次のように書いています。「子供が弱い者いじめであれば、その子がほかの子供や兄弟、両親、教師にいじめられていた経験をもつことが多い。」なんとショッキングな指摘でしょうか。しかし、この指摘は私の経験からも正しいと思います。以前のマンスリーニュースにも書きましたが、父親に幼児期から乱暴を受けていた男児が、保育所や小学校で誰彼なしに乱暴をするために問題になりました。しかし子供は教えられた事をやっていただけだったのです。これ程はっきりとしたいじめでなくとも、知らないうちに親が子供をいじめるということはないでしょうか。
 厳しすぎるしつけや大人達が常に仲が悪い家庭環境、また意識せずに勉強やスポーツを強制する。こんなことはよくあることだと思いますが、それも極端な時は、子供にとってひとつのいじめになるかもしれません。
 いじめられっ子の気持ちはどんなものでしょうか。いじめられても、文句が言えない。言えばよけいいじめられる。親にも言えない。友達や先生が助けてくれるわけでもない。毎日が不安の連続です。
 ところでいじめられっ子はどうして文句が言えないのでしょうか。また、誰かに訴えることがなぜ出来ないのでしょうか。ひとつには、仕返しを恐れるためもあるでしょうが、それだけではないような気がします。
いじめを減らすために        
 私も小学校4年生頃に同級生にいじめられた思い出があります。相手にしたら、少しじゃれ合っているだけだったのかもしれませんが、本人にしてみれば学校にも行きたくなくなるほどでした。ある時自分でも不思議なほどそれに対して刃向かった事がありました。相手はその反抗に驚いたようです。私が刃向かうようには見えなかったのでしょう。それ以後いじめは止みました。今のいじめがこれ程簡単とは思えません。しかし、いじめられっ子がいじめに屈しない自信を持たせてあげる必要はあるでしょう。不当な扱いを受けたときに、その気持ちを表に出せるのは誰でも持っている弱気の自分を抑えて強気の自分を奮い立たせることです。その基盤は、子育ての課程のなかで培われていく自信ではないでしょうか。幼児期の物の取り合いや取っ組み合いのけんか、すべてが必要な体験なのです。その中で、自分の気持ちの出し方や抑え方を学ぶのです。自殺した中学生の遺書は大人が書いた遺書のようでした。子供の頃から抑え方ばかりを身につけたのでしょう。

 私の考えからすれば、子供のいじめは、対策委員会で解決できる物ではなく、子育てがもっとのびのびと出来る社会環境を作ることです。しかし、今緊急に出来ることは、一人一人のお母さんの子供を思いやる心に正直に行動することです。危険だと感じたら子供世界に割り込んで救出してください。最後の砦は子供にとって親しかありません。残念ながら!


 目次へもどる                次ページへ