子供の日に思う

 戦後、「子供の日」が新たに制定されてから今年で五十年目に当たるそうです。それ以前、中国の故事にならって子供の成長と、母への感謝の意味も込めた端午の節句というのがありました。

 いつの世にも子供は宝と分かっていながら、大人が満足に食べられないと、口減らしとして生後すぐ密かに命を絶たれるのが当たり前の時代もありました。現代は経済的にも精神的にも余裕が出来て(?)いながら、子供は少なくスマートに育てるのが当たり前です。その背景には学歴社会を初め大きな問題が横たわっているのですが、子供が少ないための子供自体の問題や、社会の老齢化など乗り越えるべき大きな壁が立ちはだかっています。「子供の日」制定五十周年を機に私の思いをお話しします。

  生まれることは幸せ?

 「生まれることは幸せなのか」‥‥初めから随分難しい問題を投げかけてしまいました。オギャーと生まれて親の手に抱かれ、その子の人生が始まります。単純に考えれば、その家庭がその子の誕生を待ち望んでいてくれたら、その子にとってこれ程幸せなことはありません。実に簡単なことです。貧しい江戸時代の農家であろうと平成の時代のサラリーマン家庭であろうと、待ち望む家族がいることが子供の幸せの基本であることに、いつの時代も変わりはありません。しかし、そう単純にいかないのが人の世の常であります。

  新生児医療の貢献

 新生児医療の進歩は、子供の幸せにどれ程貢献したのでしょうか。昔なら早産で命を落としていた子が助かる場合も少なくありません。だからといって、以前に比較して少なくはなっていますが、障害が残らないという保障はありません。医療は、人間の生への執着が後押しして進歩してきました。新生児医療も同様です。小さく生まれた子供を助けたいという一心から、医療器具や治療に工夫がこらされました。私も二十数年前千グラムの未熟児が何の後遺症もなく成長した例を知っています。現代では、五百グラムの子も生を授かっています。しかし、小さく生まれれば生まれるほど、何らかの障害が残ってしまうことも否定できません。現代は、ターミナルケアーといって、如何に死を迎えるかが大変問題になっています。管を入れられて、長生きするのはいやだ。尊厳を持って死を迎えたい。人間なら誰でも考えることです。医師と患者さんのコミュニケーションが如何に大事であるか、それが問われて初めて患者さんが自分の本音を言えるようになったのだと思います。さて、逆に生まれる場合はどうでしょうか。新生児が自分の希望を言えれば・・・そうは行きませんが、生の始まりがどうあるべきか今後議論が必要になってくると思います。

  生きることは幸せ?

 子供たちは、現代を生きながらどう感じているのでしょうか。幸せなのか、不幸なのか、ラッキーなのか、アンラッキーなのか、切れそうなのか、我慢できそうなのか‥‥五十才の小児科医にも推測するのはなかなか難しいです。ただ、自分の周りにいる子供たちを見ていると、マスコミで騒がれるほど違和感を感じないのは事実です。ベストテンに出てくるテンポの速い私の追いていけない曲も、よくその歌詞を聴いてみると案外グッと来る歌詞だったりするのです。「私も乗り遅れてないな」‥‥ホット安心して幸せを感じます。子供たちも多分感じ方は一緒なのです。(同じ人間、当たり前だよ!)数日前、X―JAPANのhideが自殺しました。彼から生きるエネルギーをもらっていた感じやすい子供たちが心配です。幸せをひとつ奪われたのですから。大人は子供たちに多くの幸せの瞬間を与える義務があります。

  学校の問題

 不登校やいじめなど学校の問題が、大きな社会問題であることは否定できません。学校が一人歩きしていると言うより、日本社会の中で学校の位置付けをどうするかという政治の問題なのだと思います。先日、NHKテレビで和歌山県にある「きのくに子供の国学園」(?記憶おぼろげ)というユニークな学校を紹介していました。自主的な学習、その子供の能力に応じた学習設定、身体で取り組む学習など、受け取るだけ、覚えるだけの現在の学校のあり方を再考させるものでした。(再放送の時には見てください。)文部省も硬い頭から脱却して、今後の学校作りの参考にしてほしいと思います。その為には、医師と患者のコミュニケーション同様、教師と子供の立場に立った学校作りが求められるでしょう。

 
   
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