続・子育て奮闘記

 猛暑の夏も一段落、朝夕が少し過ごしやすくなってきた今日この頃です。子供たちと過ごした夏休みはいかがでしたか。山へ、海へそしてプールへ。親にとってはしんどい期間ですが、子供たちに楽しい思い出が残ってくれれば大成功です。
 さて、今月のマンスリーニュースは、先月にひき続いて A・ Hさんの「子育て奮闘記」続編をお送りします。


続・少子化について思うこと A・H


 
なぜ、子だくさんなのか?
      (この少子化の世に)

 新生児が好きなので。こうも無力でかわいい存在がとんでもなくいろんな変わり方を
するのは神秘です。幸いに家の仕事をしながら子供をみることを許してもらえているので。家事も育児も仕事も中途半端で迷惑をかけどおしですが、今にこの子たちが社会を担うとおもうのでそれまで許してくださいといった気持ちです。 年落としの恩返しです。

 子だくさんのメリット

 一人、二人のときはなんとかしようとか自分一人でどうにか出来そうな気もしましたが、増えてくると自分の無力さを思い知らされていやがおうにも人手を借りて、頭も下げたりなんかして謙虚になりました。昔よりは。ただ、変なところで暴君になったり自信を持ちすぎて頑固になったりもしています。人生まだまだいろんな人と接しての勉強です。
 あと、同情されます。大変だねーって。うれしいです。同情、大好きです。当たり前でしょっていわれるのつらいですから。そして結構たくさんの人が自分も子育て大変なのに手助けしてくれます。同情は友情の始まりです。ありがたいです。
 人との付き合いが多くなりました。子供のともだちの親やら。うれしいです。出不精なのに知り合えるはずもなかったような人たちと知り合えて。              こどものかわいらしい面もうんとたくさん見られます。何回見てもうまれたての可愛さ、おっぱいをほしい口、むしわらい、寝返りと感動します。すぐにこんな時は過ぎるものだとわかるだけ、下へいけばいくほどせつなあーくなるほど愛しいです。
 子供同士で良く遊びます。雨の日でも退屈しません。世話もせざるを得ないので要領良くやったり、または逃げることも覚えるようです。
 この物のあふれた世の中で不足を知ることができます。(悲しいですが。)

 子だくさんのデメリット

 やはり時間がないことの一言に尽きます。洗濯物も散らかすのもおしゃべりもケンカもとにかく多いのでこなしきれません。
 愛情不足も良く指摘されてしまいます。時間さえもうすこしあればと思いますが、訓練次第で無駄をなくして本当に必要なことを見極められるようになれば、これもメリットになり得るのでしょう。
 いつも誰かが病気になっている気がします。インフルエンザ、水痘、みずいぼ、必ず時間差でひろがります。仕事にならないので、いっそ一緒になってくれたらと思ったら、一度インフルエンザと水痘に同時に全員かかったときがあり、おまけに親も2人して倒れて、あんなにひどいことはもうこりごりです。
 災害時、どうやって逃げようか悩むこともあります。どうシミュレーションしても全員同時に逃げるのが困難だと思うと不安になります。ニュースで地震や紛争をみるたび
やるせなくなります。ずっと平和であってほしいです。
 お金がかかります。でも亡くなったひいおばあちゃんの「子供は自分の食いぶちと着る物はもってうまれてくるんや」との言葉をかみしめて、最低限それだけ確保すれば良いかな?とも思います。ただ、大学進学にはいくらかかる?などの文を見るたびふらっとしますが、これもまた本気で望めば何とかなるんだろうかな?遊びがてらならやれないけど、と思います。一昔前なら 歳前で奉公だったんだし、私が胎児なら大学行かせられないし産めないなんて言われたら
「あなたたちの世話にはならんから  とにかく産まれさせてくれ!」
と思うだろうし。ただ、愛してさえくれたら、喜んでもらえたらそれでうれしいって。

少子化についてどう思う?

 自分は子だくさんですが、少子化についてはある意味仕方ないのかな?とも思います。子供を育てるのには厳しい雇用状況、人間関係が希薄になってきたことによる母親に対する負担増。努力さえすれば、どんな生き方でも出来そうなたくさんの刺激や魅力が溢れる環境で、誰も彼もが「自分らしい」「ほんとうの自分」の望む生き方を探して四苦八苦している中では子供の存在はありがたいことよりもネックとなる風潮。でも、社会的には進歩を遂げてきたようで、実際には自分のキャリアや生活レベルを維持するためには子供が排除されてくる考え方はとてもコワイです。子供が少なくなってきたことよりもあまりに自分というものだけに焦点を当てがちな世の中が不安です。これでは少なくなってきても仕方ないでしょう。
 子供を産めというのも、その今の自分のことしか考えない大人を支えるために、産んで育てろといったって誰が育てるんだ?ってな風にしか取れないとも思います。
 そんなんじゃあないよ、もっといいこともたくさんあるよ、もっと皆でどうすれば良いか考えようよ、ひどいときは言ってね、手伝うよ、自分がうれしかったこと、楽しかったこと、もっとちいさいひとたちに伝えていってあげようよ、てな感じになればいいのですが。
 この間聞いた話では、小学校6年の子たちですが
「なんで俺らが1、2年生の面倒を見なきゃいけないの?」という発言が多いそうです。自分たちは同じように世話をしてもらってきているのにいざ自分がする番になるといやになるそうで・・。妙な個人の自由が横行して、大人も子供も自分のことだけは主張している世の中のようです。ここらへんの意識をなんとかして、後の世代に残していくものや、その意義から考えていかないと、どうにもならないのではないでしょうか。子供がいなくても少なくても、そのひとたちが後の世代のことを考えられれば、それで大丈夫ではないでしょうか。ちいさいひとの未来を考えず、勝手ばかりいって子供をたくさん産めといわれても、それはやはりすさんだ未来にしかならないでしょうし・・。(完)


 A・H さん、貴重な一文を有り難うございました。6人の子供たちのお母さんとして日々奮闘されている中から生まれた、一つ一つの言葉がとても重みを持っていると感じました。少子化・・・一筋縄ではいきませんよね。本当に。やはり、一人一人が人間を信じる、人間の未来を信じるより解決法はないのかもしれません。

   目次へもどる          次ページへ