春奈ちゃん事件に思う

 とうとうインフルエンザシーズンがやってきました。しかし、全国的にワクチンが不足しています。年末、あるいは年明けに追加ワクチンが出回るという噂ですが、犠牲者が出ないうちに早めにお願いしたいと思います。
 さて、今月のマンスリーニュースは、少し重いですが、「春菜ちゃん事件」について私なりの考えをお伝えしたいと思います。

  新聞報道から

 残酷な事件に違いありません。母親が、自分の子供と同じ年代の子供を殺した事件なのですから。普通の考えならば、こんなことがあるのか、信じられないということです。
 しかし、事件は現実に起こりました。新聞では、初め「お受験」が引き金というとらえ方をしていましたが、最近の様子では人間関係の疲れからという報道に変わっています。でも、よく考えると新聞って本当に無責任ですね。母親の動機が何かを言う前に、こりゃ「お受験」だと決めてしまうのですから。真実を伝えるべき新聞としては、少し反省してもらいたいと思います。

  動機の推測

 私がお母さんの追いつめられた気持ちを正確に理解できるわけはありません。それはじゅうぶん分かっているつもりですが、やはりあの事件から人間として、おのおのが何かを学ばなければいけないのだと思います。「お受験には、勝たないといけないんだ。」と思う人もいるでしょう。「今の幼稚園からの受験体制は、問題である。」と憤慨している人もいるはずです。それはその人の考えですから、批判は出来ません。しかし、私が問題と思うのは、動機が人間関係の疲れにあったということなのです。この事件の背景に、記憶から薄れつつある神戸の酒鬼薔薇聖斗君事件と同じものを感じます。たまたま人は愛したり愛されたりせず、大人になってしまうと、「人間っておもしろいなー。」とか「生きるって楽しいなー。」という気持ちが生まれないように思います。当然、人間関係は煩わしいだけのストレスのもとになるでしょう。

  人間関係を楽しみたい

 赤ちゃんが初めて出会う人間。もちろんお父さんとお母さんです。私の考えでは、お父さん、お母さんが好きになれるかどうかが、人間を好きになれるかどうかを決める大本と考えています。人間に対する信頼感が育まれることが、人間関係を上手に、かつ楽しみながら生活するもとになるのです。
 「お受験」ももちろん問題です。人間社会は、競争から逃れられない世界かもしれませんが、「お受験」は、その入り口です。幼児期からのある目的を持った方向付けは、将来を考えた親の愛情表現かもしれませんが、子供はそうと感じないでしょう。下手をすれば親を愛せなくなる原因の一つとなるかもしれません。私は、親の子供を思いやる
愛情(子供を一個の個性ある人間として認めること)こそが、将来の多くの関門を乗り越える力になると考えています。幼児期から「お受験」競争を教えることが、良いように思えるかもしれませんが、「生きることはこんなに大変なのか、死んだほうが楽だ。」と思ってしまいます。人間生活の苦しいことは、少しずつ年を経る毎に理解していけば十分なのです。生まれて何年間かは、楽しいことだけで満たしてあげたいと思います。一歳の子供でも、夫婦喧嘩をすれば、雰囲気がおかしいと感じるのです(当家はそうでした)。自然と荒波にもまれているのです。

  子供達の未来に向けて

 未来を担う子供達のために我々大人は、どんな世界を作れば良いのでしょうか。新聞紙上をにぎわせている沢山の事件。何か明日がないような気分になります。良いことも沢山あるはずなのに、凶悪な事件の陰に隠れてしまっています。
 新聞のコラムに、日本の一年間の自殺者が三万人を越えたことを伝えていました。不況のせいもあるでしょうが、やはり生きることに疲れてしまった人が沢山いるのです。人間は疲れると、自分を殺すか、人を殺すかどちらかなのでしょうか。子供の世界は、社会状況を反映すると言われますが、子供の問題行動も大人社会の反映なのでしょう。
 人間は何のために生まれ、そして死んでいくのか。深く考えれば難しい問題です。
 私の単純な頭で考えると、生活を楽しみ、人間関係を楽しみ、自分に与えられた仕事をやりながら一生を終わる。そんなとこです。それが当たり前に出来る社会になれば、自ら命を絶つような悲劇は少なくなるのでしょう。そして、子供達の笑顔も増えるに違いありません。
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