薬害エイズに思う
私が小児喘息の施設療法を目的に、国立医王病院(旧医王園)へ赴任したのは、昭和五十六年十月の事です。半年程、重心児の病棟を受け持ち、前主治医の転勤後、小児病棟の主治医になりました。その頃、外来で治療していた血友病児も引き継いで受け持つことになり、これが私と血友病患者さんとの最初の出会いです。
外来では成人一名と小児五名の計六名の方を診ていました。
昭和五十三年、アメリカからの非加熱第8因子濃縮製剤の輸入が承認され、私が受け持った五十七年頃には外来で製剤の自己注射をしたり、年少児では親に注射指導をしていました。家庭内補充療法をして出血を未然に予防するのが血友病治療の流れでした。患者さんに製剤を四、五本ずつ渡して無くなったら受診する。当然非加熱の濃縮製剤が大量に消費されました。
メーカーが琵琶湖で開催していた血友病のサマーキャンプに参加した事があります。青年はテニスの前後に濃縮製剤を入れて出血を予防していました。
私が卒業して間もない頃、福井の病院で腹痛で入院してきた血友病の小学生を受け持ったことがあります。予防治療もなく出血したら入れるという時代でした。「鉄棒をして、クルクル回った後痛くなった」と。右下腹部に大きな腫瘤を触れます。すぐ製剤(多分クリオ製剤)を入れましたが、その後右下肢は麻痺したまま動きませんでした。テニスなど夢の時代でした。このままエイズなど存在しなければ青年はテニスを一生楽しめたはずです。

最近数冊の薬害エイズの本を読みました。特に保坂渉氏の「厚生省AIDSファイル」は、日米の多くの流れが交錯する中で薬害エイズが生まれてきた様子を明らかにしています。
ベトナム戦争の終結によって余った血液が、家庭内自己注射を推進したというのは何という皮肉でしょうか。アメリカに遅れること二年四ヶ月。やっと加熱濃縮製剤が承認された時(六十一年七月)、さらに多くの血友病患者がエイズに罹患していました。
私が患者さん六人のHIV抗体を調べたのが六十年頃ですが、既に全員が陽性でした。肝硬変を持つ成人患者さんは、多量の静脈瘤出血にも大病院への入院をHIV陽性故に断られ、医王病院で製剤を入れながら、硬化療法を強行した事もあります。この成人患者さんも既に亡くなられました。

薬害エイズの責任は誰にあるのか。厚生省幹部、メーカーや阿部英がその罪を問われています。
残された記録を読むと、確かに行くべき方向が見えないところでねじ曲げられた様子が浮かんで来ます。しかし、血友病治療の最前線にいる医師は、ボスだけにその製剤の認可を任せることなく、私も含めて患者さんより更に大きな声で非加熱製剤の危険性を訴え、治験などやっている暇のないことを伝えるべきでした。最前線の医師こそ、患者さんの側に立つべきでした。
今後、薬害を早期に発見し最小限にくい止める役割は我々、患者と接している医師一人一人にあることを再認識したいと思います。
小児科いろいろ知識集