「エンゼルプランを実現しよう」

 平成6年12月、文部省、厚生省、労働省、建設省が合同で、「今後の子育て支援のための施策の基本的方向性について」という次の世代を育成する支援対策を発表しました。これが、一番最初のエンゼルプランです。つまり、戦後のベビーブーム(昭和22年:私の生まれ年)に生まれた子どもの数が、268万人でしたが、平成5年に生まれた子どもは、何と半分以下の118万人でした。政府としてはこれ以上少子化が進めば、国が衰退するという観点から子どもを如何に生み、育てるかという政策を立てざるを得なくなり発表したのです。このエンゼルプランも、完全ではないと言うことで、平成11年には「新エンゼルプラン」も作られました。それから10年、少子化の波は衰えを知らず、進行あるいは停滞しています。何故、少子化は改善しないのか。この平成11年に、私の考えを自分なりにまとめてみました。この考えは、現在でも変わりません。国のエンゼルプランが、的を射抜いていないから改善しないと私は考えています。10年後の今、私の考えを再度お読み下さい。

   私の考えるエンゼルプラン

 さて最近、新聞を賑わせている凶悪犯罪の低年齢化は、今後の子育ての方向性に影響を与える出来事です。私は、これらの事件が理由なく突然発生したものではなく、10数年の子育ての積み重ねが、それを生む土台になったと考えています。
 では、なにが以前と変わってきているのでしょうか。やはり大きな違いは、母親が労働力として社会に出る機会が多くなったことでしょう。しかし、それが悪いというのではなく、働きながらも多くの親は自分の責任において子育てをしています。父母の「親としての気持ち」が、普通の子育ての基本だと考えられますから、生後3ヶ月で保育所に預けざるを得ない状況でも親が「私が育てるんだ。」という気持ちがあれば、問題は生じないでしょう。
しかし、父母は子供を産んだからすぐ親になれるわけではありません。毎日の肉体的精神的接触の繰り返しの中で、子供への愛情が育っていくのです。生後3ヶ月で保育所に預けても、賢い母親は短い接触の中で愛を育てられるでしょう。いや、多くの母親はその力を持っていると信じています。しかし、中には不器用な親子もいます。短い接触の中、仕事にも追われ、愛情を育てられないままお互い孤独に育ってしまう場合もあるのです。自分の愛情の基盤を育てられなかった親子は、どこかで爆発せざるをえません。その機会を出来るだけ少なくするためには、親子を離す政策ではなく、むしろ接触させる政策が必要と考えます。「新エンゼルプラン」では、低年齢児からの保育、また病児保育、延長保育と「どれだけでも預かりますから、お母さんお父さんは仕事に精を出してくださいね。」と仕事優先の方針を打ち出しています。この方針には、子供の立場からの意見は全く入っていません。母親も子育てをもっと楽しみたいと考えているというアンケート結果もあります。確かに「新エンゼルプラン」には“子育てのための雇用環境の整備”や“性別役割分業や職場優先の企業風土の是正”が述べられています。ところが、最も重要と考えられる誰が責任を持って育てるのかという意識がハッキリしません。「親が責任者だよ!」と憤慨されるかもしれません。しかし、親との物理的接触が減り、支援が多くなればなるほど子育て責任が分散してしまいます。この状態で、愛情が希薄になる親や拒否的な親が増えてゆくのは、人間が愛情豊かな神ではなく愛情を育てる動物である以上避けられません。
私は、平成11年度乳幼児保健講習会(日本医師会主催)に参加させて頂きましたが、「母親神話と3歳児神話」という講演で、3才までは母親の十分な接触が大事というこれまでの考え方は不確かであり、母親を育児に縛りつける意味が大きいという意見でした。3才以前でも誰が育てても子供は普通に育つと解釈出来る内容でした。果たしてそうでしょうか。
 時代の流れとして、母親だけが育児の責任者という訳にはいきません。多くの若い親たちは父母連携して子育てに一生懸命です。しかし、子供の発達にとって母性という無償の愛を感ずる期間を確保することは大変重要であると考えられます。この期間が確保されて初めて母親は「私が育てるんだ。」という気持ちを持つことが出来ます。また子供も、自分が必要とされているという生きるための愛情基盤を確認出来るのです。少なくとも3才までは、母親を仕事と子育てを自由に行き来できるような状況を作ることが必要です。また、日本国として、子育てが社会における仕事と同様に重要であるという考えを持ってください。何しろ子ども達は日本の、いや世界の未来を担っているのです。女性の社会進出が当たり前の現在ですが、男性と同じように重要な仕事がしたいという欲求が基になっている面もあると思います。子育てが勤務の片手間に出来る、たやすい仕事と考える事に間違いがあるのだと思います。子育ては、その責任者が全身全霊をもって取り組む、次の時代を担う人間を生み出すとてつもなく重要な仕事なのです。社会は、育児途中にある父母に対して、出来るだけ便宜を図る必要があります。子供を預かる事が、子育て支援の本筋ではありません。子供が病気の時は、気兼ねなく休暇が取れるようなシステムを作るべきです。病気の子供は不安で一杯です。子供は、親が看護に当たると一番安心し自分への愛を確認出来るのです。子供の行事があれば、それは参加するのが当たり前の社会にするべきです。子供の心と親の心、ぶつかり合いと連携の日々(切磋琢磨:せっさたくま)、その積み重ねが、正常な考えを持った人間を作ります。子供に対して、未熟ではあるものの一個の人間として対応し対話する事が正常な人間を作ります。子どもを余裕を持って受け入れるためには親にも経済的・精神的余裕が必要です。親が子育てをさぼれば、必ずそのしっぺ返しは返ってきます。また、社会が子育てをおろそかにすれば、やはりしっぺ返しは返ってくるのです。人間が育つという身近な問題に対して、国も医師会も未来を見据えた正しい判断が必要です。 問題行動を持つ子供たちや若年者、そして親たちの人間環境や生育歴から、正しい子育ての方向性を分析・提言することが出来れば良いと思います。

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