酒鬼薔薇聖斗君へ

 酒鬼薔薇聖斗と名乗る中学生による残忍な事件が世間を騒がせてから、半年が過ぎようとしています。 つい一ヶ月程前、専門家による少年の精神鑑定書が神戸家庭裁判所に出されました。「行為障害」「性障害」「解離性障害」。耳慣れない言葉によって少年の精神状態が説明されていることが報道されました。しかし、それらの言葉によってすべてが明らかになったのでしょうか。                 小児科医(中学生までは小児科の受け持ちです)として、また少しばかり子供の心身症を診てきた医師として、また更に少しずれたにしても同じ時代を生きている人間として、この深刻な事件に対する私なりの考えをお話したいと思います。今回のマンスリーニュースは大変重い主題ですが、避けては通れない問題です。        「人間によって一つの行為が行われたとき、その行為を行う動機が必ず存在する」というのが私の基本的な考えです。例えば自殺する少年の心の中は、何年にもわたって積み重なった死にたいという動機が、生きたいという気持ちを上回ってしまっています。私は、子供の突発的な自殺などはありえないと思っています。少年達は、堆積した動機を払いきる機会のないまま死に急いでしまうのです。一人でも彼の気持ちを本当に理解してくれる人間がいたら、生きる気持ちを取り戻してくれるのではないでしょうか。                                  酒鬼薔薇聖斗君、君が少年や少女を傷つけた行為にも、必ず理由があるはずです。お婆ちゃん子だった君にとって、お婆ちゃんを失ったことは大きな衝撃を与えたかもしれません。死について特別な感覚を持ったかもしれません。しかし、それだけが、大きな動機なのでしょうか。                          君の生い立ちについては報道されている以上は分かりません。よちよち歩きの頃、幼稚園から小学校へ。普通の家庭であるように、誕生日のケーキや運動会のお弁当。遠足のお菓子やお祭りのおこずかい。夏は家族でプールやキャンプ。楽しい思い出もたくさんあったのではないでしょうか。君だって、悪いと知りながら、両親にワガママを言ったこともあったでしょう。言い過ぎて、お母さんに泣かれたり、叱られたりしたこともあったでしょう。中学になって、自己主張だって激しくなり、親との切磋琢磨の機会もあったはずです。なのに中学生になった君には、人間の首もトンボの首も同じだったのでしょうか。                          私も小さい頃、アリの穴に花火を詰め込んで爆破させアリの死を楽しんだこともありました。またトンボの尻尾を切り取って、そこにマッチ棒を詰め、それが残酷だとも感じずに、飛び立とうとするトンボを眺めていたこともあります。(時には、妹もいじめて泣かせました。)しかし、その遊びもいつのまにか卒業していました。今考えると、その頃我が家は、母と祖母の確執が、あたかも海の波のように寄せては返ししていました。私はその波の瀬に乗って、両者の愛を感じながらも、何も出来ない自分に腹を立てつつ、いつ呑み込まれるかもしれないという不安の日々をすごしていました。当然、無口な子供でした。                        君の中学生までの生活と私の生活とは、何が違っていたのでしょうか。私の子供の頃には、テレビもビデオもなかった。漫画も鉄人 28号しかなかった。経済的にもみんなが貧しかった。                                情報が氾濫する時代に生きる君にとって、それが大きな引き金だったのでしょうか。専門家は、ホラービデオも一因だと主張します。最近のビデオの殺戮場面は、確かにそんな主張を納得させる力を持っています。作られた映像と現実生活との重なり合いが区別できないというのは、幼児の特徴です。君は、幼児のまま中学生になってしまったのでしょうか。                            君が生まれつき精神に異常があったという専門家の意見もあります。もともとあった精神障害が何かをきっかけとして現れたというのです。そんなことは自分には分からないでしょうね。君はもう一人の自分が操っていたということを言いました。しかし、それは誰にもあると思います。こんなことをしてはいけないと思う自分と、それを押し切って悪い行動に走ってしまう自分。その行動の範囲が正常と異常を分けるならば、その間は紙一重です。                          君の行為は、家庭や社会を含めた多くの要因が悪い方向へ重なり合って起こったと私は思います。なだいなだ氏は、「人間、この非人間的なるもの」ということを言われました。自分の心の中に住む非人間的なるものに対抗する課程が人間の心の成長なのだと私は考えています。君の犯した罪は、君が幼児から少年へ、そして青年へと身体にあった心の成長を遂げるにつれて大きくのしかかってくるに違いありません。君は、自分と同じ悲劇が生まれないよう願うに違いありません。そのとき初めて、犠牲になった子供たちは救われるでしょう。

  

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